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Little fragments

マンガやイベントを中心に、雑文乱文書き散らかし。

聖なる夜にアルバイトを

 メリークリスマス!今日は楽しいクリスマス。まず、これを聞いて「お祭り」への造詣を深めよう。


大滝詠一「クリスマス音頭」

 大瀧詠一のアルバム、「NIAGARA CALENDAR」で特に傑作なのがこの「クリスマス音頭」。音頭という日本的なものとクリスマスという西洋的なもの2つを掛け合わせることで「七面鳥食って飲んで騒ごう」という「祝祭」面が強調される結果となった点をうまく「観察者」として表しているように思う。

 まぁ、クリスマスよりもクリスマス・イブがまるで本番のような感じに言われているのが最近で、「性の6時間」なんていう言葉もあるよね。


【CM 1988-92】JR東海 X'MAS EXPRESS 60秒×5

 毎年この時期何度も見るのがこのCMで、醸し出すバブリーな雰囲気は最高だと思う。特に牧瀬里穂がかわいいと毎年言っている。ちなみに牧瀬里穂版はパロディー版も面白いので検索してみてね。

 そういえば、92年だとまだ有人改札なのね……。

 

 さて、ある人は「宵宮」と表現するクリスマス・イブなのだが、不思議と仕事か家にいた記憶しかない。今年は休日なので当然家にいるパターンで、せっかくなのでから揚げを作っていたくらいだ。

 俺の場合、彼女が「クリスマス・イブの夜は実家にいる」という決まりを持っており、大学生時代はアルバイト、社会人(のようなもの)になってからは仕事か家というパターンになる。パーティーするような友達がいないんだな、これが。

 大学生の時は某中学受験専門予備校でアルバイトをしていたので、生徒に「せんせー、彼女いないんだー。」と言われていたものだった。こういうときに「ご想像にお任せします」という言葉は大変便利で、大方そんな返しをしていた。子供を喜ばせるあたり、随分サービス精神旺盛なスタッフである。

 中には鋭いヤツもいて、「センセー彼女いそうだけどな……」と言う子供もいた。その直感は大事にした方がいいぞ。と内心は思いつつ「さあ?」と返しておいた。

 そんなやり取りをした彼らも大学1年から高校1年の間になっている。彼らは素敵なクリスマスを送ることができているのだろうか。それとも流行のクリぼっちを極めているのだろうか。ちょっとだけ気になった、クリスマスの朝なのだった。

 

 洗濯ものを干したら、髪切りに行ってこよう。

レビューは認証履歴

 昨日は表現について面倒な話をしてしまったが、もう少し続けたい。

toudo-kougen.hatenablog.com

 

 新宿ロフトで行われた山下達郎のライブにいったときの話だ。曲の間にあるトークでこんな話があった。

「ロフトでは熱狂的なファンというか『信者』が来るので好評なんですよ。でも、日比谷の野音に行きますと、評価が変わって、引っ込めー!と言われ、缶が投げられたものです。」


 日比谷の野音(野外音楽堂)で缶を投げた観客は今だったらSNSで晒されてつるし上げられるだろう。でも当時はそういう「表明」が自由だったのだ。

 このエピソードは今から見ると「嫌ならみなければええやん」というコメントが出そうだ。しかし、当時の日比谷の野音は様々なジャンルのグループが演奏していた。他の演者を期待して来た人も「見させられる」システムになっていたのだ。

 いまならもっとフィルタリングやマーケティングされて「見させられる」ことはないだろう。それは結構だけれど、この野音におけるエピソードみたいな「出会い」や「批評」がないのは演者にも聴き手にも少し不幸なシステムでありやしないかと心配になる。

 

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 同質的なコミュニティで承認しあい、様々な「フィルタリング」を通したところで表現を眺める。そして感想すら承認に使う。いや、もはや承認よりも認証に近いのかもしれない。なんにしても、表現に対する感想やレビューがそんなものになってしまっているのだ。

 すると、「この世界の片隅に」や「君の名は。」に対する称賛の嵐は認証履歴の集合とみなすのが妥当かのかもしれない。あのレビューの集合体にある本当の「レビュー」はわずかではないか。そう思うのはさすがに穿ちすぎだろうか。

 

表現と配慮

 年に何回か映画を見る。特に今年は映画館へよくいった。

 ガルパンを3回も見たのち、しばらく間が空いて「KING OF PRISM by PrettyRhythm」というジャンキーなものを見て、岩井俊二の「リップヴァンウィンクルの恋人」でしみじみとし、しばらくたって「君の名は。」でモヤモヤしながら「planetarian ~ほしのひと~」を2度見に行って2回とも号泣した。

 

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出典:配信・劇場アニメ「planetarian(プラネタリアン)」公式サイトより

 さて、「君の名は。」のヒットもひと段落したところで話題となっているのが「この世界の片隅に」だ。クラウドファンディングでお金を集めていたころは結構興味があって、出資も検討したけれど結局しなかったことを上映予告で思い出している。
 じゃあせめて興行収入に貢献しようと見に行くかと思っていたのだが、なぜか行く気が起きない。

 どうもこれは絶賛されているせいなのではないかと昨日友人2名と飲んで話して気がついた。

 今年評判になった「君の名は。」にしても「シン・ゴジラ」にしても評判があまり割れず、ネットには称賛ばかりが目についた。どうもその点が引っかかって見に行く気がしないのだった。


 表現という行為は、優れているほど賛否両論巻き起こるものだ。人の心を揺さぶるというのはそれだけハードで難しいことだし、そう思うと表現者へは敬意を表さずにはいられない。
 一方で「君の名は。」にしても「シン・ゴジラ」にしても「この世界の片隅に」にしても聞こえてくるのは当たり障りのないように添えられた褒め言葉だ。素晴らしい、誰もが見る映画だ、と。
 そこには内実が伴っていない。ネタバレを避けたいという気持ちもあるのだろうが、ネタバレ以上に言葉として出てきていない気がしている。

 レビューには表現、メッセージ、内容に心をいかに揺さぶられたかが書き連ねられる。クソ映画レビューならば、いかにクソだったかを伝えるためにさまざまな表現手法を用いられる。

 しかし、今年話題となった作品は「他人に見てほしい」あるいは「他人に見ないでほしい」あるいは「クソ映画として楽しんでくれ」といったレビューをあまり見かけなかった。最近になって「君の名は。」に関しては厳しい意見も出つつあるけれども、それでも他者を想定したレビューはあまりなかった。シン・ゴジラ園子温監督が批判ツイートをしたら「こいつwwwww嫉妬してるwwwwww」みたいな悪意のあるとらえ方をされていた。

 今年の流行りの映画は肯定も否定も言語化されていない。そこに虚しさを覚えた。

 様々な意見があって解釈があって議論するからこそ表現は深化し、面白くなる。それは何も作り手だけではなく、見る側においてもそうだ。しかし、いまは議論をするための材料もない。まるで見えない爆弾を怖がって触らないようにしているかのような空気が蔓延している。俺にはそう見える。
 「配慮」の下に構成される言語空間は見た目には気持ちいものであるが、中身としては気持ちのいいものではない。「この世界の片隅に」の戦時世界よりもよっぽど恐怖に支配されているような気すらしてくる。とても怖い。

 でも、ヒット映画なんてそんなものかもしれない。
 だとすれば、ヒット映画よりも賛否両論ある映画を見たり、ひたすら号泣する映画でなぜ号泣するかを語る、もっと力強い言葉でレビューする。そういったことを意識していくことが「健康」な営みなのかもしれない。そう思った。

 ところで、友人から「ハイ&ロー」の新文芸坐一気見を倍プッシュされている。ジャンキーだが、面白そうなので、興味のある方はぜひ。

 

俺が好きな「百合」の正体に気が付いた

 創作に対する「萌え」のポイントは人それぞれだ。自分だけを見てくれる可愛い女の子が目の前で動いてくれる、男同士でキャッキャうふふしている、どう考えてもこのキャラクターは性的だからいい……などなど、作品の数と人の数を掛け合わせた分だけ好みのポイントはあるものかもしれない。

 

 さて、俺は以前から「百合」が好きだと言ってきた。
 先日も友人に「響けユーフォニアムみましょう、あれ百合っすよ百合」って言われた。それくらい周囲にも認知されている。

 でも、好きな作品を見ているとがっつり百合、例えば「桜trick」のようなもの、には惹かれないということがわかってきた。商業漫画ベースでいえば最近のヒットは「2DK、Gペン、目覚まし時計。」だ。

 

 

 やっぱ百合じゃねえかって?いや百合にもいろいろ描き方があるってことなのだ。
 個人的にはキスやセックスといった行為を百合に求めてはいない。それよりも「愛に基づいたお互いの信頼関係」が描かれることを求めていることに気が付いたのだった。

 気が付いたきっかけは、ある二次創作だ。

www.pixiv.net

 読者の皆様がキャラクターを知っているかどうかはさておき、この小説で重要なのは「ルームシェア」をしている、「お互いのプライベートスペース」がある、「最低限のこと以外干渉しないが、干渉するときは強引さもある」ということなのだ。これはお互いに対する愛と信頼関係に基づかないと起きない。

 そして重要なことは、この「愛と信頼関係」にはセックスはいらないということなのだ。むしろ彼らはもっと先へ行っている。セックスをして互いを確かめ合う必要はないのだ。もちろん気持ちがたがぶってセックスをすることはいい。しかし、愛の描写における前提としてのセックスは必要ないのである。

 先ほど挙げた「2DK~」もまさにこの「ルームシェア」のパターンだ。ああ……なるほど……と腑に落ちた。そこで取り出したのは次の漫画だ。

 

合法百合夫婦本 (百合姫コミックス)

合法百合夫婦本 (百合姫コミックス)

 

 改めて読むとたまらんですわ。
 愛と信頼関係によって生み出される生活の彩……これこそが俺が求めていた境地だ!

 ただ、同時に気づかされたこともあった。
 「愛と信頼関係によって生み出される生活」って、自分にはなくて心が求めているものでは……?
 求めているものを創作に見出すこと自体は悪くない。しかし、願望を自覚することで辛くなることもある。

 「セックスに頼らない愛と信頼関係って俺、だいぶファンタジーの世界を求めてないか?」
 この自問は大変つらい。恋愛経験をしてきたがゆえに否定材料ばかりでてきてつらい。そして思うのだった。
 

 ああ……可愛い女の子と適度な干渉関係にあるルームシェアしてぇなぁ……。

 

胡散臭い、アリバイづくりのような言葉たち

メンタルぶっ壊してちょうど1年くらいたった。


最近はネットでもの言いマンになるのはやめ、時折マンガとニコニコ動画を見る。あとはネットサーフィンがメインの生活だ。自分がモノを言わなくなるとみなさんモノ言いたがりマンなんだなぁとしみじみ思う。

結局、俺から見ると文章で意見を発信するマンというのは「世の中でオピニオンを共有することで共同体を認知し、それによって周囲の世界が「良く」なっている(自分の世界において)」というものだ。そのスタンスは否定するものじゃない。

さて、自分がこのオピニオンマンとなり、「みんなが言わないことを言ってやったぜ」みたいなことを書いても、やっていることがドナルド・トランプやんって思いなおしてしまうのだ。そして記事を消す。
逆張りって自分を装飾するアクセサリーにすぎず、豚に真珠という言葉がある通り、俺のような人間が使ってもむなしい。 

ゆえに、最近更新した記事を見れば映画のレビュー、イベントレポート、漫画のレビュー、ゲームのトピック、同人誌のレビュー、MVNOのレビュー……って全部レビューなんだな。語ることを持たず、感想を垂れ流すだけのオブザーバーというか観察者……そんなものなのかもしれない。 

今年になって、自分はオピニオン発信―共感のつながりで快感や社会的承認欲求が満たされることがないんだなぁ、とようやく気がついた。

どちらかというと何やっているかわからない胡散臭い奴として適当にレビューしながら世の中をうろうろしている。そういうことが性に合うんじゃないか。そう思っている次第だ。

ここまで改訂て、自分でも何が言いたいのかもよくわからない。けれど、くだらないこんなことを書き残すだけでも自分には糧になったりする。

 

そんなわけで、2か月ぶりのアリバイ作りのようなブログ更新でした。